もう悩まない!会社の人間関係

他人を理解できるか

私たちは、他人について、どれだけ理解することができるのでしょうか。仲の良い友人、家族、気心の知れた恋人のことであれば、深く理解しているといえますか?

 

たとえば、誰かと一緒に映画を見に行ったとします。あなたはその映画を大いに楽しみました。一緒に行った相手も「実に楽しかった」との感想です。同じ映画を一緒に楽しめたわけです。この場合、映画を通して同じ楽しみを共有できたといえるでしょうか。
 どれぐらい楽しかったのか、どのシーンのどのあたりを楽しいと感じたのか。そのような詳細をつきつめれば、映画を通してわかりあえたように感じられても、実はまったく異なる尺度で映画を見ていた可能性もすてられません。

 

他人のことは決して理解できないのだ、それぐらい謙虚な気持ちでいてちょうどよいのではないでしょうか。価値観や性格の違いはもとより、身体的な個人差によっても、見ている世界が違うはずです。視力が2.0の人と0.3の人、あるいは、身長が高い人と低い人では、同じ場所にいても、まるで違う世界のように見えているでしょう。

 

ですから、他人の言動や性格について、自分の解釈でレッテルをはることはなるべく避けるようにしたいですね。相手がどのような気持ちからそのような言動に出たのか、私たちが完璧に理解することなどできないからです。

 

近ごろ、実家に帰って母と話すことが楽しみです。母は昔から実におしゃべりで、何時間でも機嫌よく話してくれます。その長話に紅茶でも飲みながらじっくり耳を傾けるのがマイブームです。
特に、私が幼かったころのエピソードを聞くことが面白いですよ。
当時、母と私は同じ体験をしていたにもかかわらず、母の感じたことと私の記憶とでは視点がまったく異なるのです。当時の体験を、すでに大人であった母から聞かされると、それまで気づかなかった多くの発見があります。母の語りを聞くことで、記憶の穴が埋まっていくのです。
そして、私は母のことを知っているようでいて、実はぜんぜん理解していないのだと、毎回気づかされます。当然ながら、母は私をずっと見てきているわけですが、私は母の幼少のころを知りません。
親子ほど近い間柄でもそれほど深い溝があるのです。ましてや、知り合ってからの年数も短く、仕事以外のことでほとんど接しない職場の人たちなどにおいては、理解できなくて当然です。

 

分かり合えなくて当然だからこそ、他人を喜ばせることができたときの嬉しさは格別です。そして、容易に理解できない存在であるからこそ、他人と接することはエキサイティングかつ刺激に満ちているのです。

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